ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

私が『ヤマト2205』に共感できなかった理由

こんにちは。ymtetcです。

前回の記事「【ヤマト2205】福井晴敏が『ヤマト』をやる理由」に、以下のような指摘がありました。

そのヒューマニズムの安っぽい乱用が問題ではありませんか。
現実社会では,ヒューマニズムより,企業の利益追求が優先せざるを得ず,そうしないと生きていけないのです。そんなに人間たちにとって,福井氏の考え方は私自身も含めて生理的に受け付けないのです。

(仏草念雲さま)

福井ヤマトにおける「ヒューマニズム」の取り扱い方についての指摘で、重要な視点だと考えます。

ちなみに,私は先ほど,コンサルティングの依頼のあった数万人規模ののリストラ計画書の作成を終えたところです。

私自身は仏草念雲さまとは立場が大きく異なっており(どちらかといえばリストラされる側の人間)、共感するのは畏れ多いところです。

ただ私自身、学生時代に観た『2202』と社会人になってから観た『2205』を比較すると、劇場で大号泣した『2202』に対して冷めた心で頭を抱えていた『2205』と、対照的な感想を抱いています。それは結局のところ、私は福井さんの構成した「泣かせる」ドラマに共感できなかった、のだと考えられます。

では、どうして私は『2205』のドラマに共感できなかったのでしょうか。

考えられる可能性の一つは、私が福井さんの「大人向け」のドラマに共感できないほどに未熟だ、というものです。福井ヤマトの目指すものは「生きてきた年月をもって共感できる」物語です。『2205』では「家族」が一つのテーマになっていたため、まだ自分の家庭を持たない私に共感するのは、確かに難しいと言えます。言い換えれば、「生きてきた年月」が私には足りなかった、と。

ただ、今日はもう一つの可能性も考えてみたいと思います。

仏草念雲さまの指摘によると、現代の現実社会は「ヒューマニズムより,企業の利益追求が優先せざるを得ず,そうしないと生きていけない」社会。その社会に対して、福井ヤマトの描く「ヒューマニズム」は、仏草念雲さまによれば「安っぽい」。

この指摘が正しいとすると、実は『2202』→『2205』での私の反応の変化は、私の立場の変化によるもの、との可能性も考えられます。すなわち、学生だった私は『2202』に共感できたのですが、社会人になった私は『2205』には共感できなかった、との可能性です。

実は福井さん自身、現代が「ヒューマニズム」の時代ではないことは繰り返し強調しています。福井さんは2015年の『2202』企画書で、現代は「持つものと持たざる者の格差を着々と押し拡げて」「まつろわぬ者を容赦なく排斥し」「多様性を拭い去ろうとする」「冷たい論理」が支配する時代だと語っていました。そのうえで、その「冷たい論理」に対して「ヤマトが『否』と言い続ける」ヒューマニズムの物語、として『2202 愛の戦士たち』を構想していたわけです。

この時代観を持ちながら、現代社会において共感できない部分があるとすれば、「ヒューマニズム」を肯定するまでのプロセスに問題があるのかもしれません。

つまり、「時間断層の消滅で人生を破壊された土門の物語」「家族が突然安否不明となった薮の物語」「自分の拠り所になっていた”生きがい”を裏切られたデスラーの物語」が「安っぽく」なっていたのではないでしょうか。

この観点に立って、改めて私の感想を考えてみましょう。

『2205』が「安っぽい」との前提に立つと、土門の物語はありきたりすぎるし、薮の物語は都合が良すぎるし(家族が助かったのは幸運でしかない)、デスラーの物語は設定の後付け感がノイズになってしまった、というのが私の感想です。

仏草念雲さまのコメントを読むと、私が見知っている以上に、現代の現実社会は恐ろしいもののようです。こんな時代に、果たして福井さんの「冷たい論理にヤマトが『否』と言い続ける」物語がどこまで通用するのか。

次回は私もきちんと「大人」になって、「大人」として号泣できる『ヤマト』に出会いたいものですね。