ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

作品としての「価値」にみる『2199』と『2202』の違い

こんにちは。ymtetcです。

先日、久々に実家へ帰ったので結城信輝さんの『星巡る方舟 修正原画集』をとってきました。『2202』進行中(2017年)の出渕さんと結城さんの対談が収録されている貴重な本です。

今日はこれをもとに、『ヤマト2199』と『2202』の違いを考えてみたいと思います。

結城さんの言葉を読んで感じたのは、『2199』と『2202』では、作り手が「本作の価値」と考えている要素が異なっている、ということです。

結城さんによれば、現代に『宇宙戦艦ヤマト』を蘇らせるにあたって、『2199』は以下のように工夫をしていたといいます。

「2199」においては、他作品でも多く踏襲され使われたネタであっても、あえて「現代人」の目線で「驚異的な技術」として描いていく方法を取っており、200年後の世界ながら現代的なのはそのせいです。

「エアカーが走る世界でワープ? ああ、ありそうだよねぇ」といった感覚的なインフレを防ぎ、現行の技術の延長だった世界が異星人とのコンタクトによって飛躍的に進化するところが描ければ、「ワープ」や「波動砲」にもカタルシスが出せるはずだと考えました。

(THE MAN IN THE HIGH CASTLE『結城信輝 宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟 修正原画集 下巻』200ページ)

言うまでもなく、『宇宙戦艦ヤマト』以降、世の中には多くのSF作品が登場しています。それゆえ、『宇宙戦艦ヤマト』をリメイクしたとしても、現代の観客にとっては、SF的な目新しさは期待できません。

そこで『2199』のとった方法が、「登場人物たちにとっての目新しさを描く」でした。そして、登場人物と観客の視点を揃えるため、『2199』の世界観は極めて21世紀的に仕上げてある、そう結城さんは語ります。

つまり、観客が『2199』の登場人物たちに感情移入すれば、「ワープ」「波動砲」といったSF的ガジェットの衝撃性を、観客は登場人物を介して味わうことができる。

ここには、『2199』のもつ価値観が見て取れると思います。

すなわち『2199』は「現代に『宇宙戦艦ヤマト』をやる」ことに、大いなる価値を見出していました。『2199』がとった工夫には、『宇宙戦艦ヤマト』の枠組みは崩さず、観客の作品への向き合い方をコントロールすることで、現代の観客がまっすぐに『宇宙戦艦ヤマト』を楽しめるようにしよう、そんな作り手の思いが見て取れます。

一方で、旧作『さらば』を観ていることを暗黙の前提として作られた『2202』は、「『さらば宇宙戦艦ヤマト』のリメイクでこのドラマ/この演出をやること」に価値を見出していた作品だったようにと思います。

『2202』にとって、謎の白色彗星が何重にも連なった巨大要塞であることの意外性・衝撃性は価値を持っておらず、むしろ、それは観客も予め知っていることが前提となっているように思います。シーンとして再現することはしても、観客に、あの『さらば』で味わった意外性や衝撃性を与えよう、という視点はありません。例えば、『2199』的アプローチで『さらば』をリメイクするなら、世界観を観客の感情移入させやすいものにしつつ、そんな世界にあの白色彗星が到来したという、ある意味で『シン・ゴジラ』的なアプローチが取られたのではないでしょうか。

『2202』は、旧作の枠組みを崩してでも、旧作を知るファンに新しいドラマ、新しい衝撃、新しい感動を与えようとした作品だったように思います。それは、旧作の枠組みを守りながらも、現代の観客に旧作と同様の感覚を味わわせようとした『2199』とは、ある意味で対照的です。

興味深いのは、映画『ヤマトという時代』が、結果的に、結城さんの語っていたような「現代の延長線上に異星人との出会いを描く」アプローチを踏襲していることです。これは意図したものというよりも、『2199』路線への部分的な回帰を図っていたがゆえの結果ではないかと思います。

しかしどこか、『ヤマトという時代』と『2205』は、かつて福井さん自身が避けるべきだと語っていた「『2199』の8割掛け」状態になってしまっている気が私はしています。