ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

より普遍的な「ヤマトらしさ」を目指して

こんにちは。ymtetcです。

宇宙戦艦ヤマト 復活篇』が登場した2009年以降、「ヤマトらしさ」が問われる時代になったと考えています。もちろんそれ以前から「ヤマトらしさ」は問われ続け、それは例えば「『2520』はヤマトではない」などといった形で表現されてきました。そして、この潮流がネット時代(『2199』後半以降はSNS時代)になり、一人一人が多様な「ヤマトらしさ」に触れる機会が増えたことで、現在はいっそう各々の考える「ヤマトらしさ」が問われる時代になった、と考えます。

『2202』『2205』で脚本を務める岡秀樹さんは、これを「誰が決めたわけでもない」「無言のルール」と表現し、「ヤマトの発展と広がりを遠ざけている」と指摘します。そして、この「厳然としたルール」を「飛び越え」る作品として、『スターブレイザーズΛ』に期待のコメントを寄せています。これには私も同意します。

ですが同時に、こうも思います。「結局、『ヤマトらしさ』って何なんだ?」と。

保守的な私は、「ヤマトらしさ」を壊す必要は感じていません。壊すのではなくより普遍的なものに昇華し、その表象を時代に合わせて作り変えていくことが大切だと考えています。ですが現状、その前提となるはずの「ヤマトらしさ」そのものが満足に言語化されているとは思えません。そこで今回は、この「『ヤマトらしさ』が問われる時代」に我々がどう向き合っていくべきか、考えてみたいと思います。

正解のない問い

「ヤマトらしさ」とは何か?

これは正解のない問いです。無数に正解があると言ってもいいかもしれません。

現代は正解のない時代である。そう言われて久しいですね。

正解のない問題への対応は一つしかありません。考え続けることです。

宇宙戦艦ヤマト』は、既にオリジナルスタッフの手を離れています。西崎義展さんが、あるいは松本零士さんが、あるいは藤川桂介さん、舛田利雄さん……etcが携わるならば、オリジナルスタッフが提示する唯一の正解が存在し得たかもしれません。しかし、現実にそれは難しい(西崎さんなりの答えが『復活篇』なのだと思いますが、それも批判されました)。『宇宙戦艦ヤマト』は、もう後戻りできないのです。

考え、考え続けて、一人一人がそれぞれの正解を提示し続けるほかありません。ファンもクリエイターも、立ち止まることのできない時代になったと考えます。

「人類最後の希望」論、ymtetcなりの「ヤマトらしさ」

私なりに考えた一つのアプローチとして、「人類最後の希望」論がありました。

「ヤマト2202と銀河」シリーズ カテゴリーの記事一覧 - ymtetcのブログ

うだうだと書いているのですが、結論は簡単です。「地球を救う使命を帯びて戦う」ヒロイズムこそ「ヤマトらしさ」なのではないか。たったこれだけのことです。

オープニングテーマ「宇宙戦艦ヤマト」の変奏曲(例:「元祖のヤマトのテーマ」「未知なる空間を進むヤマト」「ヤマト渦中へ」など)にのって宇宙戦艦ヤマトが大切なもの(例:地球、イスカンダル)を救うために戦う。

ここに我々は「ヤマトらしさ」を感じているのではないか? そう考えたものです。

当然ながら、これは私としても満足のいく答えではありません。「地球を救う使命を帯びて戦う」ヒーローなんて、この世にありふれています。ならば、他の作品にはない「ヤマトらしさ」って何なんだ? と議論は最初のところに戻ってきます。

ただ同時に、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの作品が持っていた普遍的な魅力として、こういったヒロイズムがあった、とも思います。その点においては、決して意味のない議論ではないと考えています。

「ヤマトらしさ」の再現性

『2199』は「最大公約数」を掲げました。「『ヤマトらしさ』の最大公約数」と言ってもいいでしょう。

ですが我々は、これを十分に検討したと言えるでしょうか。

思考実験的に、『2199』が「最大公約数」を達成していたとしましょう。達成していたからといって、「よかったね」で済ませてしまってはどうなるか。ヤマトファンにとっての「最大公約数」は『2199』だけのものとなってしまい、再現性がなくなってしまうのです。

この「再現性」という考え方が大切だと考えています。

限りなく「最大公約数」に近い、かつ普遍的で応用可能な「ヤマトらしさ」を解き明かして言語化することができれば、もはや監督一人の力量に依存せず、原作の魅力にも左右されることはありません。出渕監督でも羽原監督でも安田監督でも、『新たなる旅立ち』でも『完結編』でも『2520』でも完全新作でも、そこには厳然とした「ヤマトらしさ」が存在する。宇宙戦艦ヤマト』らしく、かつ新しく、時代に適合した「『宇宙戦艦ヤマト』の新作」が登場する。そんなユートピアがやってくるはずなんですね。

無論、そんな世界が簡単にやってくるはずもありませんが。

それでも、私たち観客が考え続けて集合知を形成することで、限りなく再現性を高めていくことは不可能ではないと考えています。一人一人が考え続ける、一つでも多くの「正解」を積み重ね、言葉にしてこの世に送り出す。そしてクリエイターは、それらの言葉と向き合い、吸収し、時には無視して(笑)、自分なりの「最大公約数」を提示する。これに対して観客が、また言葉をこの世に送り出す。クリエイターがまた応じる。

この繰り返しこそが、いつかは辿り着けるかもしれない「最大公約数」に、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズが近づいていくために必要なことだと考えています。

『スターブレイザーズΛ』の役割

『Λ』では今のところ、「ヤマトらしさ」はほとんど考慮されていないと感じています。私はそれでいいと考えています。

なにせこれまでは、誰も「ヤマトらしさ」を無視することができなかったのです。

「ヤマトらしさ」とは、すなわち「この作品が『宇宙戦艦ヤマト』である意味」と言い換えることもできます。ですが『Λ』に携わる”偉い人”には、本作が『宇宙戦艦ヤマト』である意味よりも、本作を吾嬬先生に委ねた意味を大切にして欲しいです。

「ヤマトらしさ」とは、何も既存の『宇宙戦艦ヤマト』作品にだけあるとは限りません。特に、「より普遍的で応用可能な『ヤマトらしさ』」を求める時には、既存の『宇宙戦艦ヤマト』だけに目を向けては見えてこないものもあるでしょう。『2199』を貶す言論が、同時期に放映された『進撃の巨人』を「こっちの方がよっぽど悲壮感あるぜ!」と持ち出したように、です。

『Λ」には、「ヤマトらしさ」から最も遠い所から始まる『宇宙戦艦ヤマト』として、「ヤマトらしさ」をその反対側から照らす作品となって欲しいと思います。まさに「壊す」ではなく「飛び越え」る。そんな作品になるといいですね。