ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

「ヤマトらしさ」と『スターブレイザーズΛ』への期待

こんにちは。ymtetcです。

これまでの『宇宙戦艦ヤマトNEXT スターブレイザーズΛ』をどう見るかは、言うまでもなく人それぞれです。私は高評価をする傾向にありますが、全員が高評価をする必要はありません。低評価でも何でも、「話題にする」ことが大切だと考えます。

「これは新しい『宇宙戦艦ヤマト』なのだから批判しない」とのスタンスは、否定はしませんがあまり好きではありません。私だって、いつでも低評価の読者になる可能性はあるわけです。それでも、最後まで話題にし続けるつもりでいます。

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今日は、高評価側の立場から、「ヤマトらしさ」に注目して『スターブレイザーズΛ』の意義を考えてみたいと思います。

〇「ヤマトらしさ」論の現状

長年論争を呼んできた「ヤマトらしさ」は、正解のない問題です。それゆえに、この問題には考える意味があるのだと主張してきました*1

しかし、最近ではこの議論も下火になってきているように思います。

ヤマトらしさ - Twitter Search

難しいですし、何より結局「人それぞれ」が唯一の正解なんですよね。それこそ「最大公約数」を感覚的に設定して、それをよすがにするしかないのかもしれません。

このような状況の中で、岡さんが言うところの「飛び越える」作品である『Λ』とは、一体どんな役割を担うことができるのでしょうか。

〇これまでの『Λ』が見せたもの

『Λ』は、現時点で第6話までが公開されています。物語はこの先まだまだ続きますから、『Λ』が見せてくれているものはまだまだ限られています。

しかしその一方、はっきりとしてきたこともあります。それが、「キャラクターの人生=戦い方=個性」のトライアングルです。

サッカーに自分の葛藤を持つヒューゴーはサッカーをモチーフにした言葉使いと戦い方をしていますし、寒冷地出身のマリナは「寒さ」を武器に戦いました。そして、クジラをモチーフとした艦に乗るニーナは、ゲームメイト(実はユウ)と共に「ユメクジラ」を追っていた過去が、第5話において明らかになっています。

キャラクターの個性である言葉使い・戦い方・艦のデザインは、明らかに彼ら彼女らの人生と、密接な関わりを持って描かれているわけです。

〇ユウ・ヤマトの物語への期待

ユウはマーク6を初めて見た時、マーク6が「オレのカスタマイズ艦とそっくり」なことに気づいていました。第1話冒頭においてもユウは戦艦(大和?)を手にしており、第5話ではユウの部屋に戦艦の模型が置かれている描写があります。ユウのマーク6(今作の「宇宙戦艦ヤマト」に相当)もまた、彼の人生・個性と深い関わりのあるデザインのようです。

ここまでの『Λ』を見る限り、彼のドラマにも期待が持てます。

すなわち、ユウの人生とユウの個性であるマーク6・彼の言動・彼の戦い方が深い関わりを持ち、一体のドラマとして描かれていくことが『Λ』には期待できるわけです。それは、彼の人生が「ヤマト」の名と共にあったこと、彼のそばには戦艦があったこと、彼が波動砲(戦闘を終結させる兵器)を放つ役割を担っていることが、一体のドラマとして描かれることを意味します。

それができたとき、『Λ』は新しい「宇宙戦艦ヤマト」像を提示し得るのではないでしょうか。

〇「ヤマトらしさ」と『スターブレイザーズΛ』

『Λ』は、基本的に既存の『宇宙戦艦ヤマト』作品を考慮していない作品です。

ゆえに、『Λ』が既存の「ヤマトらしさ」概念に当てはまる作品になることは、少なくとも吾嬬さんの意図的なものとしてはあり得ません。

では、『Λ』は「ヤマトらしさ」という言葉とは無縁なのか。そうではないと考えます。

『Λ』は、新しい「ヤマトらしさ」を創出し得る作品なのです。

1974年に『宇宙戦艦ヤマト』が作られた時、そこに「ヤマトらしさ」の概念は存在しませんでした(強いていうなら「大和らしさ」はあったかもしれませんが)。

換言すれば、1974年の『宇宙戦艦ヤマト』は「ヤマトらしさ」を考慮していないということです。当然ですよね。なぜなら、1974年の『宇宙戦艦ヤマト』こそが、0から「宇宙戦艦ヤマト」なる存在を立ち上げ、「ヤマトらしさ」を作り上げた作品だからです。これ以後、後続の『宇宙戦艦ヤマト』たちは常に「ヤマトらしさ」に縛られ、時には「名作」と呼ばれ、時には「駄作」とも評されてきました。

『Λ』は、これまで漠然と蓄積されてきた「ヤマトらしさ」を考慮してはいません。ゆえに立ち位置としてはフラットで、0からのスタートを余儀なくされています。

こうして見ると、『Λ』は1974年の『宇宙戦艦ヤマト』の状況に最も近い『宇宙戦艦ヤマトだと言えます。意図的に、「ヤマトらしさ」の存在しない地平から、その物語を立ち上げているからです。

これまでの「ヤマトらしさ」と関わりを持たないフラットな地平から、「宇宙」の「戦艦」「ヤマト」をSFドラマとして再構築する。もちろん、『宇宙戦艦ヤマト』の名を冠している以上、全くのフラットな視座というのはあり得ないのですが、それでも、意図的に何もないところから物語を始めようとする意欲は、これまで他の『宇宙戦艦ヤマト』作品が(持ちたくても)持ち得なかったものです。それは、仮に1974年の『宇宙戦艦ヤマト』を存在しないものとして『宇宙戦艦ヤマト』なる作品を立ち上げた時にいったいどんな作品が生まれるのか、という壮大な実験でもあります。

1974年の『宇宙戦艦ヤマト』の前でも後でも上でも下でもなく真横に立って、この2020年に『宇宙戦艦ヤマト』を作る。

吾嬬さんが時々語っておられる「令和の時代に『宇宙戦艦ヤマト』をやる」とは、おおよそこのことを指しているのではないでしょうか。

この「令和の時代に全く新しい『宇宙戦艦ヤマト』をやる」とのミッションが(『ヤマト』にとって)新参のクリエイターによって完遂された時、どのように評価されるかは別として、その作品は、我々に宇宙戦艦ヤマト」と「ヤマトらしさ」の全く新しい定義を提示してくれる作品になるでしょう。

私は、『Λ』はそういった役割も担えるのではないかと期待しています。