ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2205】"「優等生」に見える"若者は出てくるのか

こんにちは。ymtetcです。

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もう大人たちには期待しない。あるべき未来を求め、伝説の艦に乗り込んだ若者たちが波乱を呼ぶ。新生ヤマト、出撃の時――!(『宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち』10月8日 劇場上映

もう大人たちには期待しない。

そんな印象的なフレーズが盛り込まれたことで、一部で話題を呼んだ『宇宙戦艦ヤマト2205』のキャッチコピー。

ですが個人的に、「もう大人たちには期待しない」「若者たちが波乱を呼ぶ」には多少の違和感があります。また、この言葉からは『2205』が「若者」のドラマを描くことも当然想定されますが、果たしてこのフレーズが、現代の若者の心情を代弁し得るものなのかは、私にとっては疑問でしかありません*1

そこで今日は、私個人が抱く「もう大人たちには期待しない」「若者たちが波乱を呼ぶ」への違和感について、書いていきたいと思います。

昨年、「うっせぇわ」なる妙な楽曲が流行りました。まずはプロフェッショナルによるこの曲の考察から、現代の若者が持っているある一面についてご紹介します。


www.youtube.com

散々テレビで聴かされてきたのでもう嫌だ、という人もいるかもしれませんが、ともあれ、2020年の日本で、特に若者を中心にこの曲が流行したという事実はあります。

1995年生まれのSyudouさんが描いた歌詞が現代の若者の心を揺さぶった……のかは分かりませんが、確かに、この曲の歌詞には現代の若者の心情を描き出そうとしたと思われるパートが存在しています。

ちっちゃな頃から優等生

気づいたら大人になっていた

ナイフのような思考回路

持ち合わせる訳もなく

(Syudou「うっせぇわ」2020年)

そして、よく知られている事実ですが、この部分はある有名な曲の歌詞を引用したものです。

ちっちゃな頃から悪ガキで

15で不良と呼ばれたよ

ナイフみたいにとがっては

触るものみな傷つけた

( 康珍化「ギザギザハートの子守歌」1983年)

一目見て、ここでは「優等生」と「悪ガキ」「不良」が、意図的に対比されていることが分かります。また「うっせぇわ」は「ナイフ」というキーワードを引用し、「持ち合わせる訳もなく」と即座に否定しています。2020年の若者が、1983年の若者を否定する構造ですね。

さて、今日はプロフェッショナルの考察を引用することにしましょう。東京大学非常勤講師の「鮎川ぱて」さんは、この二曲について、以下のような考察を公開しておられます。

この曲は「大人への抗議」を歌っていない。抗議とは、コミュニケーションである。若者が、盗んだバイクで走り出したり校舎の窓ガラスを割って歩いたりしなくなってもうずいぶん経つ。若者が大人世代に反発心を持っているなら、それは自分たちにわかるかたちで表現されるだろうと思う大人世代は、楽観的である。若者は、あなたの前では最後の直前まで「優等生」で「模範人間」だろう。
「うっせぇわ」が描いているのは、大人への断念であり、実際には語られることのない本音である。言うなれば、飲み会で年長者と談笑した翌日に辞表を出す若者の内面だ。事が起こったときにはそれは終わっている。コミュニケーションは必要とされない。

「うっせぇわ」を聞いた30代以上が犯している、致命的な「勘違い」(鮎川ぱて @しゅわしゅわP) | 現代ビジネス | 講談社(3/7)

鮎川さんは、「うっせぇわ」の歌詞を”大人への断念”と読み解いています。断念とは「あきらめること」です。

ここからは素人の感想ですが、確かに、若者世代の大人たちへの反発行動として、「あきらめること」はかなり一般的であるように思います。あたかも”つまらない動画ばかりをアップするようになったYoutubeチャンネルの登録を解除する”かのように、若者は大人に見切りをつけていくのです。

つまり、若者は目立った波乱を呼ぶことなく、静かに去っていく

そんな若者が40年前と比べて増えているのかは分かりませんが、一般論として、そのような若者は今たしかに存在しています。インターネット上に散らばる「大人」を、現代の若者は選ぶことができるからです。自分の意にそぐわない「大人」を切り捨てたところで、若者に(短期的な)デメリットは存在しないのです。

結論的に言えば、以上が、私が「もう大人たちには期待しない」「若者たちが波乱を呼ぶ」に違和感を抱いた原因だと思います。

ただし、現代の若者たちが全く波乱を呼ばないかと言えば、全くそんなことはありません。ですが、その「波乱」も、若者たちが主体的に起こすものというよりは、若者たちが若者の常識を(主観的には)淡々とこなした結果、「大人」のグループとの間に不具合が発生して起こるものであるように思います。つまり、若者たちの存在を「波乱」と見なすのは、若者たち自身ではなく「大人」の方であるということです。

「現代の鏡像」を理想とする福井さんの脚本が、アニメ的にありふれた、デフォルメされた「波乱を呼ぶ若者」のみを描いてしまうのか、はたまたその限りではないのか。その点は、『2205』を考える上では一つの論点としてもいいのではないでしょうか。

*1:もちろん、そもそも『2205』は現代の若者の心情を代弁するために「若者」を登場させるのではない、そんな可能性もあります。しかし、私の観測する範囲では、土門たち「若者」を現代の若者の心情を描いたキャラクターにすることへの期待は、決して無視できないものがあります。さらに、何より福井さんが「現代の鏡像」としての作品を追求しているのですから、「若者」もまた、現代の若者の「鏡像」であってほしいもの。