ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2205】古代進のドラマに共感できないとすれば

こんにちは。ymtetcです。

福井ヤマトの終着点の一つである『2205』。福井さんは『2205』を「生きてきた年月をもって共感できる」「大人が見られるもの」と述べています。ですが、主人公の一人である古代進に対して「いつまでも悩みやがって」との声も根強いものがあります。すなわち、観客が古代進の「悩む」ドラマに共感できていないのです。

では、それはなぜなのでしょうか。

古代進のドラマに共感できない観客がいるとすれば、その理由は、古代進の抱える悩みが、「大人」の悩みというよりも若者の悩みであるから、だと考えます。

つまり、「大人」が共感できる悩みになっていないのではないでしょうか。

実は『2202』の古代進が抱える悩みも若者の悩みでした。だからこそ、観客から「ウジウジするな」「いつまでも悩むな」との意見も出たのだと思います。ただ、『2202』は「『さらば』の古代進の葛藤」を蘇らせることが目的だったので、古代の悩みが若者の悩みになってしまっている点も、致し方ないと言えます。

ですが、『2205』にはそうしたものがありません。つまり、作劇上の大きな意義もなく『2202』のドラマの延長戦を戦っている、との感が強い。これが意図したものでないのなら、「大人が見られる」作品を目指す上では課題でしょう。修正が必要だと考えます。

ただし、福井さんも、「大人が見られる」ドラマを古代進を通して描こうとはしていなかったはずです。「大人になりかけ」の古代ではなく、「大人になってしまった」デスラー・薮を通して、「大人が見られる」ドラマを描こうとしていたかと思います。

ですが、良くも悪くも現実のヤマトファンは、どうしても古代進というキャラクターを軽視できないのです。もしも『2205』の古代進のドラマに不満を持った人がいるとすれば、こうしたターゲット層のズレがあったからなのかもしれません。だとすれば、観客・作り手ともに、歩み寄りが必要だと私は思います。