こんにちは。ymtetcです。
一昨日、岡秀樹さんがツイッターで「ヤマト責任」なる表現を用いておられました。
高島雄哉さんが執筆される「復活篇前日譚小説」の制作に合流した時、最初に頭をよぎったのはこのことでした。
— 岡秀樹 (@hidekiokahideki) 2021年9月14日
長い長い前置きになってしまいましたが、要はこういう事です。
「ヤマト愛とヤマト責任」
愛と責任の両方を注いでくれる人たちを招いて、独りよがりでない物語を目指したかったんです。
今日は「ヤマト責任」について、考えてみたいと思います。
一昨日、岡さんは『アクエリアス・アルゴリズム』執筆チーム結成秘話の中で、「ヤマト愛とヤマト責任」の「両方を注いでくれる人たち」を招いた、と述べておられました。ここで登場したのが「ヤマト責任」なる言葉です。私の知る限り、初めて使われた用語なのではないかと思います。
この「ヤマト責任」、私は今後の『ヤマト』新作に参加するスタッフを評価する上で、一つの有力な視点になるのではないかと感じました。
『ヤマト』新作に参加するスタッフを評価する際、よく用いられるのが「ヤマト愛」です。「『○○』がつまらないのはスタッフにヤマト愛がないからだ」との意見を見かけたことのある人も、少なくないのではないでしょうか。
私はこの「『○○』がつまらないのはスタッフにヤマト愛がないから」との意見には、以前から違和感をおぼえてきました。なぜなら、作り手に「ヤマト愛」があることと、受け手が作品を面白いと感じることは、必ずしもイコールではないからです。
例えば、『2202』はあれほどの賛否両論を招いたわけですが、監督の羽原信義さんは『さらば』の大ファンとして知られています。この矛盾にも似たものをどう説明するか、私にはよく分からなかったのです。『2202』が少なからずの「否」を招いたのは、羽原さんに「『さらば』愛」がないからなのでしょうか。私はそうは思いません。
さらに言えば、私は『2202』の福井脚本には「賛」の立場ですが、私が『2202』の福井脚本に「賛」の立場をとるのは、福井さんから「『さらば』愛」を感じているからなのでしょうか。そうではありません。
「スタッフのヤマト愛」と作品の評価は、このように、個人の主観レベルであってもいまいちマッチしてきません。その理由がうまく説明できなかったことに、私はモヤモヤを抱えていたと言えます*1。
さて、今回 岡秀樹さんが提示された「ヤマト責任」の考え方は、私が2年半もの間抱えてきたモヤモヤを解決するものになるかもしれません。
試しに考えてみましょう。
『2202』の羽原監督は、業界の中でも指折りの『さらば』ファンである……ひとまず今日は、これを前提とします。では、羽原さんが『さらば』を大変愛するスタッフなのだとすれば、なぜ羽原さんの監督した『2202』を観た人の中から、作り手を批判するような意見が出るのでしょうか。それは、『2202』を観たその人が、作品から「ヤマト責任」を感じられなかったからだ…… どうでしょう。説明がつかないでしょうか。
あるいは、『2202』の脚本・福井晴敏さんが『さらば』ファンであるとは正直(私は)思いません。では、なぜ私はこれまで福井さんの『2202』を(完全新作ではなく)「『さらば』のリメイク」として評価してきたのでしょう*2。それは、私が福井さんの脚本から「ヤマト責任」を感じたからだ……どうでしょう。説明がつかないでしょうか。
このように、「ヤマト責任」という新たな言葉は、これまで交わされてきた新作『ヤマト』のクリエイター論議に突破口をあけてくれるものになるかもしれません。これまで「ヤマト愛」だけでは説明のつかなかったものが、「ヤマト責任」をベースに考えると説明がつく、なんてこともありそうです。
『2199』『2202』をはじめとするリメイク・ヤマトに様々な想いを抱いてきた方も、ぜひ「ヤマト責任」に注目して、それぞれの作品を振り返ってみてはどうでしょうか。もしかしたら、その作品の新たな一面が見えてくるかもしれませんよ。