ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ナミガワ様より】ヤマト2202へのモヤモヤを解く考察

こんにちは。ymtetcです。

先日の記事「映画『バトルシップ』と「ヤマトらしさ」 - ymtetcのブログ」に、ナミガワ様よりコメントをいただきました。当該記事に掲載された私の『2202』に対する不満を踏まえて、私が過去記事で用いた「特殊能力」*1などの用語を織り交ぜていただきながら考察されていたため、私にとってはたいへん分かりやすい考察でした。

ですが、ナミガワ様よりいただいた考察は、私にとってのみならず、かなり多くのヤマトファン、『2202』ファンの、どこかモヤモヤしたものを解消し得る考察だと感じました。今日は「他人の褌で相撲を取る」ような記事にはなりますが、ナミガワ様の考察がいかにして私の『2202』へのモヤモヤを解消したのか、ということを考えていきます。

『ヤマト2202』に対する私(ymtetc)のモヤモヤ

①名シーンが台無し

一つ目のモヤモヤは、映画『バトルシップ』を取り上げた冒頭の記事でも書いていることです。私には、「ヤマトはどうしたの?」という『さらば』の名シーンを再現した場面が『2202』にも存在するのに、旧作の魅力がどうも反映されていない、という不満がありました。私はその理由について、『2202』が「ヤマトの復活劇」という構成をとっていないからだ、もっと言えば旧作の「ヤマトの復活劇」を福井さんが見落としてしまったからだ、と考えていました。

ですが、「我々は『さらば宇宙戦艦ヤマト』を徹底的に研究した」と胸を張る福井晴敏さんを筆頭とした『2202』チームが、こんなに重要な要素を見落としてしまうというのも、よく考えるとおかしな話です。ここに、何気ないモヤモヤが残されていました。これが、ナミガワ様の考察で見事解決します。

②≪銀河≫ってなんで出てきたの?

二つ目のモヤモヤは、「≪銀河≫ってなんで出てきたの?」という問題です。

≪銀河≫というと、よく「(副監督の)小林誠が無理やりねじ込んだんだ」と言われることがあります。ですが、これについてはどうも信じがたいのです。ざっくり言うと、私はこの「ヤマト級二番艦」という存在の登場は福井さんの発案なんじゃないか、という話をかなり信じているわけです*2

これについては、指摘されている舞台挨拶を見ていない私には実証できていません。ちなみに「ヤマト級二番艦」という存在は、最初の「企画メモ」から3か月後に提出された福井さんの「構成メモ①」(2015年7月31日)に初めて登場します。そこには、

ヤマト級二番艦、ムサシ。時間断層の中で密かに建造されていたそれが、ヤマトのシルエットを持ちながらより未来的な意匠をまとって出現する。

(『シナリオ編』234頁。)

と書かれています。「ムサシ」と記されると『復活篇』を想起せざるを得ない一方で、「ヤマトのシルエットを持ちながら未来的な意匠」という表現があの「ムサシ」を指すのか否かはあいまいなところです。

ですが、副監督の小林さんがリークした「銀河のデザインを見て『なんでこんなやつに』と憤ったスタッフがいた」ことが事実だとすれば、「二番艦は福井さん発案、小林デザインの流用は羽原監督発案」だと考えると筋が通ります。「こんなやつ」を「こんなデザイン」と解釈すれば、その言葉はどこか「二番艦」という存在を前提にしているように見えますからね。

まぁいずれにしても、福井さんが初期から、前向きに「ヤマト級二番艦」という存在に向きあったことは間違いありません。また、そこに福井さんなりの狙いがあったことも想像に難くありません。この点が、私にとってはどこかモヤモヤしている部分でした。これについても、ナミガワ様の考察で解決していきます。

ナミガワ様の考察

ではまず、私なりに考察の概要を紹介していきます。

「ヤマトの復活劇」は『2202』に存在した

これが、ナミガワ様の考察の結論です。「ヤマトの復活劇が存在しない」として『2202』を批判した私の結論とは対照的です。

ナミガワ様の考察と私の考察には、ひとつの分岐点がありました。それは、旧作『さらば』及び『ヤマト2』の読み解き方です。

ymtetc:宇宙戦艦ヤマト」という存在に注目すれば、この二作品は同じ「ヤマト(大和)の復活物語」という「軸」をもっていました。

私は『さらば』に組み込まれていた「宇宙戦艦ヤマトの物語」を、第一作に引き寄せて「老朽戦艦の復活劇」と解釈しました。

これに対してナミガワ様は、

ナミガワ様:私は、パート2における「ヤマト復活」は、ヤマトとアンドロメダの対立構造の中で語ってこそ意味があると考えます。

として、私に欠けていた視点を指摘しておられます。すなわち、『さらば』におけるアンドロメダが、「ヤマトの復活劇」においてどのような役割を果たしているかという視点です。

『さらば』『ヤマト2』のヤマト=アイデンティティーを奪われている

まずナミガワ様は以下のように、『さらば』冒頭のヤマトと『2202』冒頭のヤマトの共通点を指摘されています。

ナミガワ様:2202では、冒頭の時点でヤマトの現役復帰・波動砲再装備が確定しており、ストーリーの設定上はヤマトは復活したことになっています。ただ、それは物語のテーマにも登場人物の意思にも反することであり、いわば(作品のテーマに照らして見れば)名ばかりの復活です。ここで『さらば』と比較してみたとき、物語の仕掛けとして「ヤマトの廃艦」と「波動砲再装備」が対応していることに気づかされます。両者とも、それぞれの作品中においてヤマトのアイデンティティーを奪う機能をしているからです。

(下線はymtetc)

キーワードは「アイデンティティー」です。

『さらば』冒頭のヤマトは、「廃艦」という形で地球防衛軍から除籍されることにより、軍艦としての「アイデンティティー」を喪失しています。

一方の『2202』も、「波動砲再装備」という形で、『方舟』で積み上げた”波動砲を使わない”という自身の「アイデンティティー」を喪失していることになります。

ですが、ここには『2202』と『さらば』の微妙な違いがあるとナミガワ様は指摘されています。それがアンドロメダの役割です。

ナミガワ様は、『さらば』『ヤマト2』のアンドロメダについて、

ナミガワ様:『さらば』ではストーリー開始時点でヤマトが一線を退いており、さらに廃艦にまで追い込まれます。このときヤマトを敗北に追いやったのがアンドロメダで、その機械化された機能や連装の波動砲により、ymtetc様が定義されるところの「特殊能力」をヤマトから奪い去っています。同時にアンドロメダは、戦争を忘れて物質文明に溺れる地球人の象徴としても描かれており、これは、ヤマト旧乗組員の思想ひいては「最後は愛=ヤマトが勝つ」という『さらば』のテーマそのものと対立するものです。

つまり、『さらば』開始時点でアンドロメダは名実ともにヤマト復活のハードルになっているわけです。したがって、アンドロメダ=地球政府の不正義を見切り、旧乗組員らがかつての正義の象徴であったヤマトを発進させた時点で、名実ともに「ヤマト復活」のストーリーが始まっていたといえると思います。

(下線はymtetc)

  • ヤマトを敗北に追いやる存在
  • ヤマト旧乗組員の思想と対立する存在
  • 『さらば』のテーマ「愛(=ヤマト)が勝つ」と対立する存在
  • 「かつての正義の象徴」だったヤマトと対置される、新たな地球の「正義の象徴」(ヤマト旧乗組員にとっては「不正義の象徴」)

と読み解きます。「ヤマト復活のハードル」とも表現されていますが、まさに旧作のアンドロメダは、ヤマトにとって乗り越えなくてはならない存在だったというわけです。

その一方、『2202』のアンドロメダについては、

ナミガワ様:ヤマト=作品のテーマとその対立項であるアンドロメダ、という『さらば』における地球側の対立構造が、波動砲(に象徴される思想)の是非に置き換わっており、しかもこの時点では「ヤマト復活」が作品のテーマの完遂に直結していない。ストーリー上の「ヤマト復活」と作品のテーマが食い違った状態でヤマトが発進している

と述べておられます。

ナミガワ様:ヤマト=愛=作品のテーマとアンドロメダの明確な対立構造があったからこそ、アンドロメダの敗北の裏返しとしてのヤマト復活、そして最終的なテーマである「最後は愛=ヤマトが勝つ」を完遂するというストーリー構造の転換をスムーズに演出できたのでしょう。

旧作のアンドロメダがヤマトを敗北させ、明確に対立し、乗り越えなくてはならない存在だったからこそ、旧作は「ヤマトの復活」を「スムーズに演出できた」とナミガワ様は指摘します。

旧作のアンドロメダが明確にヤマトと対立する存在だったのに対して、『2202』のアンドロメダはヤマトクルー自身の中の葛藤、彼らが抱えるモヤモヤの象徴であり、明確に対立できるような存在ではなかったのかもしれません。

『2202』のアンドロメダは「波動砲艦隊」の象徴として、思想的には旧ヤマトクルーと対立する存在。ですが、『2202』は、ヤマトクルーが「バッカヤロー」と憤る一方で、彼ら自身もまた、どこかその思想を否定できないという矛盾を抱えています。これについてナミガワ様は、『2202』が「不条理を認めて矛盾を内包するという苦しいロジックを経ることで、ストーリー的にも現実的にもかろうじてアイデンティティーを維持する」という展開を辿ったと指摘しました。

このように、事象としては『さらば』『ヤマト2』も『2202』でも、アンドロメダはヤマトのアイデンティティ―を奪う存在として描かれていました。

ですが、若干の違いもあるようです。それが「テーマとの対立」です。

「愛=ヤマトが勝つ」というテーマと『2202』

『2202』は、その使命のひとつに「”愛”の復権」を掲げて始まりました。

福井晴敏:我々が今一度”愛”をテーマに据える根本理由は、今という時代において、かつてヤマトが発信した”愛”の再定義と復権こそが急務であるという確信に他なりません。

福井晴敏「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち(仮)企画メモ」『シナリオ編』220頁)

そして旧作『さらば』同様、『2202』は「愛が勝つ」という構図を取りました。

ですが、『2202』と『さらば』の「愛が勝つ」には、決定的な違いがあるとナミガワ様は指摘します。少し長く引用しますが、素晴らしい考察だと思いますので、こちらを読んでください。

ナミガワ様:『さらば』ではすべての希望が潰えてもなお戦うヤマトを演出するために、ヤマト以外の戦力には終盤までにすべて消滅してもらう必要がありました。その結果最後に残ったヤマト、ひいては古代進一個人を絶対的・排他的な存在としての英雄にすることができていました。その英雄が最後まで自らの意志を守り、その理想に殉ずる。これが『さらば』のクライマックスであり、「愛の勝利」でした。
一方2202のクライマックスはそのあとに設定されています。異次元に飛ばされた主人公を助ける決断を全人類が下し、ヤマトが2人を迎えに来る。ヤマトは山本玲と同じくメッセンジャーの役割に徹しており、物語の顛末を決するドラマにヤマト自体は組み込まれていません。ここに、宇宙戦艦ヤマトというある種偶像化された英雄の物語であった『さらば』を、「あなたの物語」にまで引き下げるという至上命題を自らに課した2202の真骨頂が見て取れます。古代進ひとりの決断ではなく、全人類の選択として「愛の勝利」をつかむ。「宇宙戦艦ヤマトの物語」という軸を一度解体し、「古代進を中心とした物語」=「縁」「大いなる和」としてすべてを再構成することでヤマトのスピリットの復活を描いて見せたのではないでしょうか。まさに名を捨てて実をとる構成です。

ここでは、「英雄が最後まで自らの意志を守り、その理想に殉ずる」それが『さらば』における「愛の勝利」だとされています。

一方『2202』における「愛の勝利」とは何か。ナミガワ様は「異次元に飛ばされた主人公を助ける決断を全人類が下し、ヤマトが2人を迎えに来る」「古代進ひとりの決断ではなく、全人類の選択として『愛の勝利』をつかむ」と分析されています。『さらば』が死をその終着点にしていたのに対して、『2202』は生をその終着点にしている点が対照的ですね。

ナミガワ様によれば、このラストシーンにおいて、ヤマトは「山本玲と同じくメッセンジャーの役割に徹し」「物語の顛末を決するドラマに」「組み込まれて」はいません。それこそが「宇宙戦艦ヤマトというある種偶像化された英雄の物語であった『さらば』を、『あなたの物語』にまで引き下げるという至上命題を自らに課した2202の真骨頂」だとナミガワ様は評価します。

では、やはり「ヤマトの復活」は『2202』には存在しなかったのか。というと、先ほども申し上げたように、ナミガワ様の分析によればそうではありません。ナミガワ様は、ここに「ヤマト級二番艦」の役割を見出します。

「愛が勝つ」ドラマと「ヤマト級二番艦」の役割

ナミガワ様:一方2202でも18話でアンドロメダが敗北を喫し、代わってヤマトが白色彗星に立ちはだかります(略)。『さらば』における「ヤマト復活」のシーンであり、順当な流れでいけばここで「俺たちには~」が来てよいところなのですが、なんとここでヤマトまでもが決定的な敗北を演じることになるのです。しかも、自らの内部から生じた要因によって。
このとき瞬時にしてヤマトは自らのアイデンティティーを否定され、依って立つところを失います。「最後は愛=ヤマトが勝つ」という作品の最終目的地から最も離れたところへ文字通り“飛ばされて”しまうわけです。ヤマトにとって代わったのは銀河で、オーバーテクノロジーを有し、さらにあろうことかヤマトと同じ形をしている。ヤマトに敗北のレッテルを張り、その存在にとって代わろうとする対立項としての銀河は、『さらば』冒頭のアンドロメダと同質の存在といえるでしょう。

こちらも先ほどと同様に、引用をしっかりととってみました。

ナミガワ様の指摘によれば、『2202』第18話でヤマトが経験した敗北は、「愛が勝つ」からはかけ離れた敗北でした。第18話での敗北は「愛ゆえの敗北」だからです。”愛が勝つ”としてきた旧作の構造を逆手にとり、『2202』は、”愛があるから負ける”という皮肉な、そしてこれまでのヤマトが描いてきた”愛”とは最も対極にある敗北を用意していました。

少し先の話をすると、『2202』は、第18話に象徴されるような英雄譚にとっては邪魔者でしかない「”愛”の負の側面」を描きつつ、最終話のクライマックスで「でも、それだけじゃない」として、”愛”を改めて肯定する構造をとっています。文字通り「愛の復権」に挑戦した作品だと私も考えます。

話を戻しましょう。

「愛ゆえに敗北」を喫したヤマトと入れ替わるように地球防衛軍の主力を張るのが、「ヤマト級二番艦」でした。その二番艦が”愛”を否定するAI艦であり、”愛の艦”であるヤマトと同じ形をしているというのは、皮肉でしかありません。

つまり『2202』は、この皮肉のために「ヤマト級二番艦」を用意したと言えます。

そして、この「ヤマト級二番艦」という存在を利用して、『2202』は「ヤマトの復活」物語を描きました。ここも、ナミガワ様の考察原文をお読みください。

ナミガワ様:ここで2202が採ったのは、両者を敗北・消滅させることで再びヤマトの復活・再浮上を図る、という方法ではありませんでした。銀河・アンドロメダが当初の使命を放棄し、ヤマト救出を選択する、いわばヤマト復活の妨害者であった両者が自らを支えていた思想を否定することでヤマト復活が成し遂げられるという変化球を投げてきたのです。
このとき、ヤマトのアイデンティティーであり作品のテーマであった「愛」は、ヤマトの乗組員だけのものではなく、彼らを取り巻く人間関係全体が共有するものとなります。ここにきて「縁」「大いなる和」といった伏線が活きてくるわけです。
さて、ここで実現した「ヤマト復活」とは、一宇宙船とその乗組員だけが地球の運命を一身に背負い文字通り「人類最後の希望」になるという、『さらば』の筋書きに対する現代的なアンサーとして、ヤマトのアイデンティティーを支えている思想であり作品のテーマである「愛」そのものの復権・肯定を描いているのではないでしょうか。

こうした意味で、『ヤマト2202』のクライマックスは第21話と第26話の二か所に設定されていたと言えるでしょう。

ナミガワ様の考察を読んでいて気付いたのは、この第21話のクライマックスと第26話のクライマックスでは、「宇宙戦艦ヤマト」と「古代進」が相互のドラマに不干渉だったということです。第21話の「ヤマト復活」のドラマでは古代進の役割はほとんどありませんし、第26話でのヤマトの役割はあくまでメッセンジャーです。もしかしたら『2202』は、第21話と第26話で『ヤマト』の二人の主人公、すなわち宇宙戦艦ヤマト古代進の「復活物語」を描こうとしたのかもしれませんね。

私が考えるナミガワ様の考察の意義

私がこれまで提示してきた『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの分析枠組みは、「人類最後の希望」と「二つの軸」でした。一方、ナミガワ様が今回提示された分析枠組みは、「アイデンティティー」と「愛の勝利」です。

私がナミガワ様の考察にどこに感銘を受けたかと言えば、その応用可能性の高さです。

例えば、「人類最後の希望」という枠組みは、劇中においてヤマトが「人類最後の希望」であるか否かに着目するものです。すると、『さらば』冒頭のヤマトが「人類最後の希望ではない」のはもちろんのこと、『ヤマト3』冒頭のヤマトも「人類最後の希望ではない」となります。つまり、この二作品の冒頭で描かれた「ヤマトの役割」が区別できていないのです。

ここに「アイデンティティー」という枠組みを当てはめてみれば、この二作品の違いがくっきりと見えてきます。『さらば』のヤマトが「アイデンティティー」を奪われているのに対して、『ヤマト3』のヤマトはそうではありません

こうすると、旧作『ヤマト』の分析がぐっと深まりますよね。私には「アイデンティティー」という考えが全く浮かんでいなかったので、ここにまず感銘を受けました。

 

もう一つが、「愛の勝利」です。私は「アイデンティティ―」にも増して、こちらの「愛の勝利」という概念に感銘を受けました。

何故ならば、「愛の勝利」は『さらば』以降の『宇宙戦艦ヤマト』すべてに当てはまる概念である可能性があるからです。

作品ベースで丁寧に検証したわけではないのでまだ結論は出せませんが、『さらば』『ヤマト2』『新たなる』『永遠に』『ヤマト3』『完結編』『復活篇』……これらの作品のクライマックスには、常に「愛の勝利」が置かれていた可能性があります。

しかも、「愛=『尊い犠牲』の勝利」という形をとって

 

”旧作を下げて『2202』を上げる”形になって恐縮ではありますが、このような見方を旧作シリーズにぶつけてみた時に、『2202』が描いた”愛”はとても大きな価値を持ちます。

何故ならば『2202』は、「愛ゆえに敗北する」ドラマに徹底的に向き合って、観客にどこか敗北感まで与えながら、最後の最後に「愛ゆえに勝利する」というクライマックスを提示したからです。

しかも、「愛=『共に生きる』の勝利」という形をとって

私たちはここで、『2202』の企画書をもう一度参照しなくてはなりません。

福井晴敏:我々が今一度”愛”をテーマに据える根本理由は、今という時代において、かつてヤマトが発信した”愛”の再定義と復権こそが急務であるという確信に他なりません。

福井晴敏「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち(仮)企画メモ」『シナリオ編』220頁)

愛=「共に生きる」。

これこそ、福井さんの掲げた「”愛”の再定義」だったのではないでしょうか。

そして! だからこそ、その続編たる『2205』が同じ脚本陣で作られるという事実が、とても大きな意味を持ちます。

何しろ『2202』は、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズのドラマを支えてきた「愛の勝利」を、”死”から”生”へと転回させたのです。一筋縄ではいきません。

『2205』が「愛」を語る作品になる可能性は高くありませんが、『宇宙戦艦ヤマト』を作る上では、どこかで「愛の勝利」というクライマックスからは逃れられません。

私は、このようにして旧作の”愛”を独自に(勝手に?)再定義した以上は、福井さんには再定義した”愛”を、再定義した「愛の勝利」を『宇宙戦艦ヤマト』のクライマックスとしてより具体的に表現する責任があると考えます。

それは、「愛」をテーマにした作品で「愛の勝利」を描くことよりも、ずっとずっと難しいことです。ですが、そうしてこそ、『宇宙戦艦ヤマト』は「愛=死」という呪縛から解き放たれて、「真の復権」を果たすことができるのではないでしょうか。

おわりに

たいへん、たいへん長くなりましたが、これにて今回の記事は終わりです。

足りない読解力を総動員してナミガワ様の考察に向きあいました。私の力では及ばない、あるいは誤読している箇所もあるかと思いますので、ぜひとも原文での通読をおすすめします。以下の記事のコメント欄です。

ymtetc.hatenablog.com

≪銀河≫というよりも「ヤマト級二番艦」の役割について、私は今回のナミガワ様の分析でかなりスッキリとしました。

ただ、この≪銀河≫の描き方については順調ではなかったことが窺える、若干のブラックボックスが『シナリオ編』に見え隠れしています。

こちらの方は次回の記事で書いていきたいと思います。