ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2205】なぜ「あらすじ」がキャラ視点なのか

こんにちは。ymtetcです。

『ヤマト2205』の「これまでのあらすじ」は、地球とガミラスとのファーストコンタクトから、芹沢虎鉄の視点で『2199』『2202』を振り返るものでした。「あらすじ」でありながら起承転結があり、ガミラスやガトランティスとの戦い、そしてあの国民投票芹沢がどう向き合い、今はどう思っているのかを軸にして、『2199』と『2202』の内容を『2205』に向けて語る形をとっています。「10分で分かる『2199』『2202』」というよりは、「10分で分かる『ヤマトという時代』」に近いイメージかもしれません。

この形式は、間違いなく『ヤマトという時代』が作った流れを受けたものだと言えるでしょう。ただ、『ヤマトという時代』を受けたものだと考えれば多少納得がいくにしても、『2202』までの流れを受けたものだと考えると、違和感も拭えません

福井さんたちは、なぜ芹沢視点で語る『2199』『2202』を、『ヤマト2205』の導入に位置づけたのでしょうか。今日は、『2205』の前2作からの”継承”の視点から考えてみたいと思います。

今回も枠組みや構造について言及するので、予めご承知おきください。

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『2205』の導入として位置づけられた「これまでの宇宙戦艦ヤマト」が、なぜキャラクター視点で語るものとなったのか。

それは『2205』が、『2199』と『2202』から継承したものと関係があります。

『2205』の特徴として「『2199』を否定しない」「『2202』を否定しない」と言われており、それは事実なのですが、一方で『2205』が、敢えて『2199』『2202』から継承しなかったものもあります。例えば『2199』のキャラクターの描き方。あるいは『2202』のメカ・美術デザインなどです。

その中で、『2205』が最もストレートに『2199』『2202』から継承したものは、キャラクターの行動原理でした。「もしそれが命令であったとしても、間違っていると思ったら立ち止まり、自分を貫く勇気も必要」。「約束は守る。助けを求められたら手を貸す。みんな当たり前のこと」。これらの言葉は、『2205』に登場する多くのキャラクターを貫く行動原理です。

私はここに、『2205』の導入がキャラクターによる語りとなった理由が隠れていると考えます。

すなわち、『2205』が「『2199』の続編」「『2202』の続編」として最も重視したのは、ストーリーや設定ではなくキャラクターの行動原理。キャラクターの行動そのもの=ストーリーだけではなくその背後にある原理を重視した……つまり、このシリーズのキャラクターたちが特定の状況に対してどう考え、何を否定し、何を肯定してきたのかを重視したから、『2199』『2202』の「あらすじ」がキャラクター視点の語りとなったのではないでしょうか。

そうしないと、『2202』が語ってきた「理想」と「現実」の対立構造が『2205』の観客に持ち込まれず、『2202』の延長線上にある『2205』第4話の反乱シーケンスにうまく観客の感情を乗せることができない……そう判断したと考えます。

『2202』の頃の「あらすじ」では、沖田十三の神視点という”発明”によって、バランスのとれた表現ができていました。今回は生けるキャラクターの独白になったことで、少しわざとらしくなってしまったことは否めないでしょう。

神視点路線を継続するのであれば、例えば『2202』を知るキーマンを語り部としてもよかったかもしれませんが、高次元世界の住民に語らせると、どうしてもその先を見通した語りにならざるを得ません。そうすると、『2205』でキャラクターたちが選択を下さなければならないところに、観客の感情を乗せることができなくなります。

その意味で、『2202』で古代救出を訴えた真田の語りを中心とした『ヤマトという時代』と対を成す語りとして、『2202』で時間断層維持を訴えた芹沢の語りを「あらすじ」にかえる判断は、結果的に多少の違和感はあれど、決して悪くない判断なのではないかと思います。後章では誰の語りになるのか、少し楽しみですね。