ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2205】旧『新たなる旅立ち』を継承するドラマ

こんにちは。ymtetcです。

今日は、『2205』と旧『新たなる旅立ち』の関係について考えていきます。

『2199』『2202』と違い、原作が絶対的な存在ではない『2205』ではありますが、サブタイトルに『新たなる旅立ち』、そして次回作が『ヤマトよ永遠に』であることを考えると、やはり旧作との関わりも、長期的なテーマとしては見逃せないものだと考えます。

〇旧『新たなる旅立ち』のキーポイント

今日は深掘りできませんが、私は旧『新たなる旅立ち』のキーポイントが3つあると考えています。「世代」「親子」「別離」です。

まず「世代」とは、物語における「世代」が変化することを指します。世代交代というよりも、物語を構成する人々の世代が一段階若くなる、といった方がいいでしょうか。古代がヤマトのトップとなり、若手乗組員が乗り込んでくるあのイメージです。

次に、「親子」は主題歌が「サーシャわが愛」であることから着想したものです。親から子に向けられる視線を描こうとしたのが、旧『新たなる旅立ち』だったのかなと思います。

そして「別離」は、デスラーにとってのスターシャとの別れであり、スターシャにとってのサーシャとの別れであり、サーシャにとってのスターシャと、古代守にとってのスターシャと、そして視聴者にとってのガミラスイスカンダル・スターシャとの別れです。

〇『2205』における「世代」「親子」「別離」

これらのキーポイントは、『2205』ではどうでしょうか。

まず、「別離」については、まだまだこれからといったほうがよいでしょう。

「世代」については、前章でかなり時間を割いて描かれたと考えます。旧クルーが艦隊の各艦に散り、古代がヤマトの艦長となって、ヤマトの主要クルーも、『2199』『2202』ではサブの役割を与えられていた面々が昇格しています。入れ替わりではなく、まさに構成の変化です。そして空いたところに、新クルーたちが乗り込んできています。ドラマ的にも、古代と土門の出会いの物語は厚みをもたせて描いていますから、力は入っていたと思います。

「親子」については、『2205』はかなり独自性をもたせてきました。「親父が泣くぞ、か」の一言で土門、徳川、坂東を同じ「親子」のドラマの土俵に上げたように、「親子」のドラマについては『2205』もかなり力を入れていると思います。

何より、土門と薮です。土門の物語は「息子から見た父親」、薮の物語は「父親から見た子どもたち」。つまり両側面から、「親子」の物語が描ける環境を整えています

このように、『2205』は旧『新たなる旅立ち』のキーポイントを、着実に継承しているのではないかと私は考えます。

〇『2205』のデスラーは?

さて、きになるのはデスラーの物語です。デスラーの内面を描くことも、旧『新たなる旅立ち』の重要なポイントの一つでした。

旧作のデスラーは、ガミラスに対する祖国愛とスターシャに対する「愛」、この二つを描いていたと思います。『2205』もこれを継承していますが、『2202』の設定メモにあるデスラーの物語を読むと、デスラーの物語にも変化があるかもしれません。

『2202』版のデスラーは、スターシャに母親の姿を見ていました。

唯一、その心を癒したのはスターシャだった。デスラー家の日陰者が英雄になっても、スターシャだけは以前と変わらぬ目でアベルトを見つめ、接してくれた。そこに望んで得られなかった母の視線を重ね合わせ、アベルトはますますスターシャに惹かれていった。

本編でも描かれたように、デスラーの母はマティウスばかりを見て、アベルトを見てはいませんでした。そこに入ってきたのがスターシャだったというわけです。

このように、デスラーのスターシャに対する愛も、どこか「親子」のドラマに重ね合うところがあります。とすれば、デスラーのドラマもまた、土門や薮をめぐる親子のドラマと通じるものが出てくるかもしれません。

『2202』脚本チームは、作風として、同じテーマで複数のキャラクターのドラマを描くことにより、様々な角度からそのテーマを捉え直す、というアプローチをとることがあります。『2202』第六章はまさにその良い所が出た映画でした。

『2205』もまた、このようなアプローチがとられるのか?

ここは注目したいところですね。