こんにちは。ymtetcです。
福井さんは『2205』の「企画メモ」で、今後の『ヤマト』の物語の在り方として、二つの道筋を提示しています。
(略)幾多の試練を乗り越え、「古代アケーリアス人だけが知っている人が宇宙で果たすべき役割」を果たし、約束された理想郷に人々を導く
――もしくは、”愛”ゆえにそれを拒み、人が不完全であり続けることを肯定する物語。その場合、ヤマトは人が人であり続けることを選択した責任を取って、一万年後もどこかで続いている戦争を止めるために永遠の航海を……
(141頁)
今日は、特に後者の道筋に注目します。
福井さんのいう「一万年後もどこかで続いている戦争を止めるために」との発想は、『完結編』に添えられた「ヤマト10年の賦」の思想と一致します。
……
それから時が過ぎ 何度ももえて
ただ愛だけで とび立っていた
すべての星よ 緑に染まれ
願いよ届けと とんでいた
ヤマトよ二度と 傷など負うな
……
(「ヤマト10年の賦」)
福井さんの発想は、決して旧作『ヤマト』と無関係なものではないと言えます。
さて、このブログで以前、ナミガワ様のコメントを契機に「作り手の理想像と実際のヤマトの行動にギャップがある」との議論がありました。
(略)
ヤマトの存在は、別に「人類最後の希望」として機能しているわけではない。それどころか、他国の紛争に積極的に介入して、かえって祖国に危険を招来しかねない、「人類最後の希望」にあるまじき行為かもしれない。それでもヤマトは行動する。
(略)
“たとえ「反乱」を起こそうとも「理想」を実現しようとする態度”と、従来の「人類最後の希望」なる存在形態は、このままいけば対立概念に発展する可能性すらある
(ナミガワ様コメント:2021年12月4日【ヤマト2205】地球社会の矛盾)
旧作の(略)ヤマトは、理想像としては「宇宙平和の使者」であろうとする作り手の願いはありつつも、実質的には、地球人類を守るための戦いを繰り返してきた
(ymtetc:2021年12月12日「人類最後の希望」と「宇宙平和の使者」)
この論点については、福井さんも注目しているようです。
福井さんは「企画メモ」で以下のように指摘しています。
第一作目を起源とするテーマ性は失われ、『さらば~』までの切実な空気感も消え去って、「新たな侵略者に立ち向かうヒーローとしてのヤマトを大スケールで描く」”ショー”のみがそこにある。
(略)
正面から向き合ってこそいませんが、この二本の原作(『新たなる』『永遠に』)も一作目由来のテーマを完全に忘れたわけではありません。
(略)
有機的にストーリーと結びついていない嫌いはあれ、「人はいつか戦争という業を克服して理想郷を目指すべきだし、目指せる」という作り手の強い想いは伝わってきます。
(140~141頁)
ここで福井さんがいう「ヒーロー」は、このブログでいう「人類最後の希望」にあたるでしょう。また、「一作目由来のテーマ」は「宇宙平和の使者」にあたると言えそうです。
なお、このブログでは、「人類最後の希望」(実際のヤマトの行動)と「宇宙平和の使者」(作り手の理想像)にあるギャップを「矛盾」と表現していました。一方、福井さんはこのギャップを「作り手もテーマ性を忘れたわけではない」と表現しています。微妙にニュアンスが異なりますが、これは私がどちらかといえば「ヒーロー」としてのヤマト像を重んじている「”ショー”寄り」の立場であるのに対して、福井さんは物語のテーマ性を重んじる「”作品”寄り」の立場をとっていることに起因すると思われます*1。
さて、冒頭に引用した福井さんのストーリー展開は、必ずしも実際のリメイク・ヤマトに反映されるものではないはずです。ですが、福井さんの発想の中に、そうした物語があるというのは興味深いでしょう。先述したように、福井さんの発想は、「ヤマト10年の賦」に象徴されるような、旧作後期『ヤマト』が目指した「テーマ性」と一致しているからです。
福井さんによる『ヤマト』シリーズの再構築が「旧作当時は内実が伴わなかった『ヤマト』のテーマ性を、『さらば』と同等の熱量をもってよみがえらせる」ことの一点に集約されるとすれば、福井さんを起用した意義が見えてきます。
もちろん、出渕さんが始めた『2199』の先に「福井ヤマト」が連なっていていいものか、という問題は大いにありますが、「福井ヤマト」単体でみれば、”リメイクをした意味があった”と総括できるシリーズになるのではないでしょうか。
*1:この視点の違いが、作品の在り方にどう影響するのかも、考えてみたいポイントですね。