ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2205】キャッチコピーから物語を想像する

こんにちは。ymtetcです。

初日に『ヤマトという時代』を観られず、『Λ』の記事を書くにも時間が足りない昨日の私は、実のところ今日の記事をどうするのか、少しだけ悩んでいました。

『ヤマト』公式が、やってくれました。

キャッチコピーは、

それでも「生きろ」と?

不安と哀しみの時代に、いま再びヤマトが飛ぶ。想像を絶する新たな宇宙へ――

公式サイトのイントロダクションページの背景には、ガミラスイスカンダルが描かれています。

氷川竜介さんのイントロダクションも読んでみましょう。

宇宙戦艦ヤマトは進み続ける。人類の未来を守るために……。

帝星ガトランティスとの果てしなき物量の激戦を経て、大いなる代償と引き換えに困難な高次元領域からの帰還を成し遂げたヤマトと古代進。しかし宇宙には、新たな戦乱が待っていた。

本作は1979年に高視聴率を獲得したテレビスペシャル『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』以後の要素を一挙に結集!「ヤマトの次世代クルー」「銀河レベルでの星間戦争」を核として、徹底的な再構築に挑む。

徳川太助や土門竜介ら新クルーの参加、意外な旧クルーの乗船、文字どおり人類の命運を背負って生きのびた古代進の苦悩と、ドラマ面でも深みを増していく。ガミラスイスカンダルの二連星を見舞う悲劇、ボラー連邦と謎の黒色艦隊とデスラーの軍勢との抗争を皮切りに、一大宇宙叙事詩が展開する。

人の希望と尊厳を追及する「新たなる旅立ち」が、ここに始まった!

これだけでも、色々と想像が働きますね。

〇『2205』の軸

まずここから読み取れるのは、『2205』の軸が

の三つにあることです。ガミラスデスラーを分けたのは、私が『2202』最終話時点のガミラスは分裂している……と考えているからです*1。具体的には、バレルやヒスたちのガミラス本星派と、バーガーやフラーケンたちの「デスラーの軍勢」に分かれていると考えています。ここで物語のスケールを大きくしながら、『2205』全二章と恐らく存在するであろうその次の『ヤマト』に向けて、展開がなされていくものと思います。

〇『2205』のテーマ

さて、本題はこちらです。『2205』のキャッチコピーをもう一度読み、前作『2202』と『2205』における「生きる」(「生きろ」)の違いについて想像してみましょう。

それでも「生きろ」と?

不安と哀しみの時代に、いま再びヤマトが飛ぶ。想像を絶する新たな宇宙へ――

ここからは、不安の続くこの現代に、それでも「生きる」ことの大切さを描こうとする『2205』の意図を感じます。思えば前作『2202』でも、「生きる」ことの大切さが一つのテーマとなっていました。

では、『2202』と『2205』の「生きる」(→「生きろ」)はどう違うのか。

『2202』では「責任を取って死ぬ」行為に対する「生きろ」であったのに対して、『2205』では、「しんどいから死ぬ」行為に対する「生きろ」に変わっていくのではないかと私は想像します。

『2202』における「死にたい」は、自己の理想が現実によってへし折られていくことに対する「死にたい」だったかと思います。自分の大切にしているものを自分で壊しながら生きていくことに対する絶望を描いた作品、とみることもできるでしょう。

対して、現在の社会はどうでしょうか。福井さんが例に挙げる、毎年のように起こる大規模な自然災害。そして現在のパンデミック。そこにあるのは、自分の外から押し寄せてくる不安であり、絶望です。

――(自分ではどうすることもできないことがたくさん起こっているのに)それでも「生きろ」と?

このような、自分ではどうすることもできない現実に対する「死にたい」を、『2205』は描くのではないでしょうか。そして、それに対して私たちが「生きよう」という気持ちを抱くことができたなら、『2205』は十分、私たちを『新たなる旅立ち』させてくれる作品だったと振り返ることができそうです。

なお、こうして考えると、『2202』はあくまで『さらば』のリメイクであったために、実は福井さんの解釈する現代社会に100%即した作品ではなかったのかもしれません。『2205』はもっと、福井さんの現代社会認識に即した、より福井ヤマトとして純度の高い作品になるのではないかと期待しています。結果、新たな『ヤマト』のテーマ軸を生み出してくれるなら、これ以上のことはありませんね。

危機を乗り越えてもまた次の危機が来る時代。そのしんどさと、解決のためのヒントを描く。福井作品らしく「映画館を出た時に、景色の見え方が変わっている」映画になってくれることを期待して、10月8日を待ちたいと思います。