こんにちは。ymtetcです。
いつもコメントをありがとうございます。返信できず申し訳ありません。ただ、必ず目は通すようにしています。
さて、いただいたコメントを読みながら考えたのは、私が『2205』以降、”書きにくさ”を感じており、それが記事にも表れているのではないか、ということです。
今日は『2205』以降、記事が書きにくくなった理由について考えていきます。
さて、『2205』以降の私の課題は、以下の二点に集約できます。
- そもそも私が『2205』を初見時に楽しめていない
- 『2205』に対する世間の評価が高い
世の評価と自分の評価にギャップがある場合、世間と自分のどちらかが、作品の理解につまずいている可能性が考えられます。例えば『2202』の場合は、脚本映像化段階の問題があり、それによってつまずいている人が多かったと言えます。だからこそ、私は『シナリオ編』を借りて、たくさんの記事を書くことができたわけです。
『2205』の場合、どうやら世の中の人は理解のつまずきを感じていないようです。そこで私が、自分自身の理解のつまずきを消化していく必要があります。それが「【ヤマト2205】古代進と「家族」と、あの涙」に続く、怒涛の『2205』考察シリーズだったと言えます。
ここから数カ月がたった現状、『2205』理解が深まっているかと言えば、そうではありません。理解のつまずきを消化するための資料が不足していることと、私自身のリサーチ不足がここにあります。あえて世の中に責任を転嫁すれば、世間は『2205』に対して(少なくとも私と同じ論点では)不満を抱いていないようなので、議論が進んでいない、と考えることもできます。
このようにして、なかなか『2205』理解が深まっていないのが現状ではないかと思います。資料集発売を控えたこのタイミングで、初見時の感情を思い出しつつ、もう一度『2205』を見つめ直してもいいかもしれませんね。